沿革と歴史

民団誕生

民団は、1946年10月3日東京・日比谷公会堂において「在日本朝鮮居留民団」として創団されました。

民団の半世紀は、在日同胞の法的地位確立と民生安定、文化向上、国際親善と祖国の発展と平和統一の実現を方針にかかげ、数多くの運動を総力をあげて展開し実績をあげてきました。

その結果、在日同胞と祖国をとりまく情勢は、創団時にくらべて大きく変化し、本団の構成員も60万在日同胞中、40万人を擁する組織体として成長してまいりました。先輩達の祖国愛と同胞愛、そして民団を思う血と涙の結晶であることは言うまでもありません。

その一方で、本格的な2・3世の時代の到来と多様化するニーズに積極的に対応するために組織改革も怠りませんでした。1994年第44回定期中央大会において、本団の名称を「在日本大韓民国居留民団」から「居留」の二文字の削除とともに規約も大幅に改正したのです。

運動形態も抗議糾弾型から和合創造型の運動へと転換を試みるなど常に次の時代をみつめてきたのです。

更なる飛躍をめざし、この60年の歩みを、創団時の組織闘争期から自主活動期、前進期、跳躍期、拡充期の5段階に分けて振り返ることにします。

組織闘争期(1946年~1956年)

民団は、1945年10月に結成した「在日朝鮮人連盟(朝連)」の共産主義化に反対し、決起した「朝鮮建国促進青年同盟」と「新朝鮮建設同盟」を主軸として民主勢力を糾合、共産主義者らの妨害をのりこえて結成されました。
民団の創団自体が在日同胞社会の自由と民主主義を守り、在日同胞社会の今日の繁栄の基盤を築いたと言えます。

その他にも在日同胞の税金闘争、外国人登録令反対闘争、国連の韓半島信託統治に対する反対闘争など各地で衝突があいつぎました。

1948年、韓国政府樹立とともに在日同胞の公認団体として同年10月、正式に認められました。

韓国動乱の時には祖国防衛のために、641人の学徒義勇軍が編成され、第一線に参戦しております。

自主活動期(1957年~1966年)

1959年に日本と北韓の赤十字社で合意した在日同胞の北送事業の時は、鉄道線路への座り込みをはじめ全組織をあげて決死的な阻止運動を展開しました。北韓が地獄であるという当時の本団の主張と運動は、今日にいたってようやく正しかったことが証明されました。

また、1965年の「韓日条約の締結時」には、在日同胞の「法的地位」について、繰り返し改善を要望しております。在日同胞の「法的地位」について、不十分ながらも、国交回復という大局的な見地に立ち韓日条約を支持しました。

1964年に開催された東京オリンピックでは在日韓国人後援会を構成、韓国選手団を物心両面から応援しました。

前進期(1967年~1976年)

1966年から71年まで韓日協定にともなう「永住権申請運動」を全組織をあげて推進、朝鮮総連の妨害をはねのけ、有資格者56万人中36万5千人の申請を果たしました。

1970年の大阪国際万国博覧会でも後援会を結成し、「韓国館」の建立を支援するとともに1万人にのぼる本国同胞を招請しました。

1972年の7・4共同声明は、祖国の平和統一に向けて、その基本精神を積極的に支持しました。しかし、その後の北韓の不誠実極まりない姿勢によって実現には至りませんでした。

「セマウル運動」の時には、150個所の農村と姉妹血縁を結び、祖国の農村の発展に大きく寄与しています。青年達により、セマウムシムキ運動へと発展する一方、「セ民団運動」として、組織強化運動に結びつけました。

1975年からは、「総連系同胞の母国訪問団事業」を実現させました。これまでに、約4万5千人以上の総連系同胞がこの事業を通じて、韓国を訪問し肉親との再会を果たしています。本団の主張と運動の正しさが証明された事業として、内外から大きな評価を受ける一方、組織拡大の契機となりました。

また、この時期に、政府公館が日本の各地に設置されましたが、本団は、積極的に支援しております。

跳躍期(1977年~1986年)

ソウルオリンピックの成功を願い在日同胞から約100億円の募金が寄せられ、その功績を称えオリンピック公園内に記念碑が建立されたこの時期には、韓日協定で積み残された在日同胞のさまざまな権益について自ら解決すべく、「権益擁護運動」を全国的に展開しました。公営住宅の入居や国民年金への加入、金融差別の撤廃、入管法の一部改正、国公立大学教員採用問題、就学案内など200項目以上あった行政上の国籍要件を撤廃させてきました。

83年の「外国人登録法指紋押捺撤廃100万人署名運動」では181万人を超える署名を集める一方、押捺留保運動で実力行使にも訴えました。

ソウルオリンピックの開催に当たっては、後援会を結成し、100億円にも上る寄金を送り、成功の一翼を担いました。

そのほかにも平和統一諮問会議の日本地域の一員として祖国の平和統一への寄与をはじめ、防衛募金、独立記念館建設募金など、大きく寄与してきました。

拡充期(1987年~1998年)

「91年問題」に向けて、在日韓国人の法的地位を求める「安定した法的地位と待遇を促求する在日韓国人 近畿地区大会」に1万人が参加した
87年からは世界の韓民族との連帯を訴えるべく「海外韓民族代表者会議」を提唱し、隔年ごとに集い、連帯を深めています。

「88ソウルオリンピック」以後、韓国は国際社会で次第に重責を担う先進国隊列に加わりました。さらに、90年代に入って、ベルリンの壁の崩壊に始まる共産国家の崩壊は、体制競争に終止符を打ち、自由主義体制の勝利を告げるものでした。

この情勢の変化の中で、祖国の平和統一実現のために、在日同胞の私たちに何ができるかを具体的に問いかける事業として、91年に行われた千葉世界卓球選手権大会を契機に在日同胞社会の和合に向けて朝鮮総連と組織的交流を試みました。

在日同胞の「法的地位」の最大の運動でありました「91年運動」によって、私たちは、末代までの永住権を確保しました。さらに外国人登録法の「指紋押捺制度の廃止」、「再入国許可期間の延長」などを含めた日本の法改正をかち取ることができました。 ポスト「91年問題」で提起された21世紀をみすえた新しい同胞社会を構築するために、「生活権拡充運動」、「民族社会教育運動」の展開と共に、地域住民としての権利である「地方参政権」を獲得するために、今、本団は積極的にこの運動を推進しています。

95年の阪神大震災では「共生・共栄」の精神から、日本のどの政府機関よりもいち早く被災者の救援活動に乗り出し、総連系同胞、日本人被災者にも同じく物資を配布し、社会的に大きな評価を受けると共に、今後の活動のあり方に大きな示唆を受けました。このような本団の一連の事業は、在日同胞60万人のため先輩達が自分の出来る力を出し合って築き上げた、必要不可欠組織であることを証明したのです。

韓国と在日同胞の架け橋に

韓国政府が認めた公認団体として、民団は本国と在日同胞との架け橋の役割を果たしてきました。

36年間にわたる日本帝国主義の植民地支配と同族相殺の韓国戦争で荒廃した祖国の発展に尽くそうと、祖国のセマウル運動に歩調をあわせた73年の「60万人のセマウムシムキ運動」では、祖国の山々への苗木植樹や150ヵ所の郷土集落との間でセマウル姉妹結縁を結びました。

87年11月には民団の主導で「海外韓民族代表者協議会」を構成し、現在も世界700万人の海外同胞の代表者が、居住国での権益を確立しながらも海外同胞の立場から祖国への貢献を続けています。

スポーツなどの事業支援では、64年の東京五輪の時に結成した「在日韓国人後援会」がモデルとなり、70年の大阪万博、86年の第10回ソウルアジア競技大会、88年のソウル五輪、そして02W杯へと続きました。このほかにも広島アジア大会や、北京アジア大会、福岡ユニバシアードなど、国際的なスポーツ大会ごとに「後援会」を構成し、大会の原動力の一翼を担ってきました。

また、02年夏の台風被害には約4,000万円、03年2月の大邱地下鉄の火災惨事には約1,800万円、03年夏の台風には4,000万円余りの募金を被害者に伝達するなど、本国の同胞と悲しみをともにする支援を続けています。

さらなる飛躍をめざして

21世紀を迎え、2・3世世代が主流となった在日同胞社会は変革期にあると言えます。まず、名実ともに在日同胞社会の求心体として位置づけていかなくてはなりません。
二つ目は,統一祖国の時代を迎えるために民団の役割と使命が再確認されなくてはなりません。民団が中心となって、同胞社会を統一することが、民族統一運動の一助となることでしょう。
三つ目に、私たちが居住する日本との関係についても、新たな道を模索しなくてはなりません。私たちは、明らかに日本社会の一員であり、住民であります。私たちは「地方参政権」を必ずやかち取らなくてはなりません。

在日同胞を取り巻く環境は日々変化しています。私たちには地方参政権問題をはじめ、同胞の生活に密着した民族教育や福祉問題など、さまざまな課題が課せられています。

在日韓国人はもちろん日本籍同胞、ニューカマーを網羅した団体として、私達の人権を守り、多民族・多文化共生社会を目指して皆さんとともに頑張りたいと思います。

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